性教育に「権利」教育は切っても切り離せません。
私は圧倒的な親サイドの人間ではないのですが、この件についてはちょっと考えさせられました。
この問題は正解、不正解があるものではありません。
個人の価値観が左右するものでもあります。
子どもの権利もあります。
しかし、知的障害のある子を持つ親にだって自分の幸せに向かって努力する権利はあるはず。
。。そう思わずにはいられませんでした。
優勢保護法は、障害のある人でも結婚や子を持つ権利があるというものです。
ですから、障害のある方が結婚したい、子どもを産みたいと言った場合、祝福をしなくてはいけないのです。
反対することは優勢保護法を指示することになるのです。
障害のある子とその親の利は相反することになります。
私が疑問に思ったのは2点
まず1つ
知的障害のあるわが子が子どもを産むことを祝福しなくては優勢保護法を指示することになるという部分です。
例えば、すべての知的障害のある子の出産を反対するなら確かにそうなのでしょうが、
知的障害があるわが子が責任が取れない事に対して辞めるよう説得するのは優勢保護法に反することなのでしょうか?
例えば・・返せない借金をする時に判断が出来ない人に本人がローンを組みたいからとローンを組ませるのでしょうか?
問題の種類は違うかもしれないが、妊娠出産の方が重いのではないか?
借金はまだ自己破産すれば済むかもしれないが子どもはそうはいかない。
里親に出す事を本人が納得しなければ出す事はできない。
確かに祖父母に養育の義務はありませんが、
そうなると親が責められるのがこの国の価値観、文化・・。
となると・・親自身の権利はどうなるのでしょうか?
知的障害のある子を産んだと言うだけでそこまでの贖罪を受けなくてはいけないのでしょうか?
私は沢山の親を見てきました。
知的障害のある子を産んで育てるだけでもそれはそれは辛く悲しい想いをしている。
親だって好きで知的障害に産んだわけではないだろうし
この社会で自分の力で生きていけるように産んであげたかったという声は本当によく聞きます。
多くの親は知的障害があるから苦しいのではなくて
この社会でかわいいわが子が虐げられることが辛い。
そして多くの母親は自分を責め、苦しみ病んでいます。
知的障害の子とその子どもを守ってくれる社会であるなら親は苦しむことは無いでしょう。
この社会まだまだ弱者を守ってはくれない。
しかも判断力に脆弱性のある子はヘルプも上手く出す事ができない為、
周囲が気が付く時には手遅れになる事は容易に予測可能だ。
それが解っていて賛成しなくてはいけない法なのでしょうか?
2つ目の疑問
日本には里親制度がありますが、里親を希望する人には
子どもを育てるためには育てられるかどうか調査をする。
なのに子どもを産む人は(知的障害がある場合でも)子どもを育てられるかどうかの調査は入らない。
産めるのと育てられることは違います
他人なら子どもを育てられる環境か調査が入りますが、判断力に脆弱性のある人が産んだ場合は
育てられるかどうかの調査は必要ないと言うのは、何か釈然としない物があります。
私は子どもを育てるだけの判断力が無い場合、
個人レベル(家族以外の支援を継続的に得られない場合)での支援しかないのであれば
産むのはやめた方がいいと思っています。
なぜならいつの世も犠牲になるのは幼い命だから。